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2017-04-04猫星往還記4 このエントリーを含むブックマーク

http://www.kanunu8.com/book3/8026/175696.html

 また喉が渇いてきた。腹も空いている。たとえ鳥や獣のように夜の闇の中で食べ物を探すことを厭わないとしても、僕にはその能力さえないのだった。幸い、寒くはない。ここでは昼夜を問わず裸で過ごしても風邪をひいたりはすまい。僕は小屋の壁にもたれて座り、星空を眺めた。遠くにあの林が見える。何も考えられたくない。きっと、どんなにバカバカしいことを考えても涙があふれてくるだろう。孤独はそれほど苦痛よりも耐えがたいものなのだ。 

 僕はずいぶん長いことそこに座っていた。瞼がだんだん重たくなってきたが、思い切って眠ってしまうこともできない。しばし目を閉じてはハッと気づいて無理に目をこじ開け、そしてまた眠りに落ちそうになる。一瞬、黒い影が見えたような気がしたが、確かめる間もなく姿を消した。神経が高ぶっているための幻覚だろうと自分の臆病を責め、また目を閉じた。だが閉じたばかりの目をまた開いた。やはり安心はできない。ほら!、また黒い影がよぎった。見たと思ったらすぐに消えた。髪がゾワゾワと逆立ち始めた。僕には火星で化け物を捕獲する計画なんてありやしないのだ。もう目を閉じる勇気はなかった。

 ずいぶん長いこと何の動きもなかった。ためしに薄目を開けて様子をうかがってみた。来た、あの黒い影だ。

 もう怖くない。あれは幽霊であるはずがない。猫人間だ。やつらは視力が特に発達していて、遠くからでも僕の目が開いたり閉じたりしているのを見ることができるに違いない。緊張と嬉しさで息が止まりそうになりながら僕は待った。目の前まで近づきさえすれば何とかなる気がした。しかし何を根拠に自分が猫人間よりも優れているような気がするのか。拳銃を持っているから? お笑い草だ。

 ここでは時間には何の価値もない。まるで何世紀も経ったかと思われた頃、やつはようやく近くまで来た。一歩進むのに15分、あるいは1時間もかかったかもしれない。その一歩一歩には彼らが歴史的に受け継いできた慎重さがあった。東へ一歩踏み出し、西へ一歩進み、背を丸め、軽く背伸びし、左に向きを変え、後ずさりし、一片の雪のように地に伏せて匍匐前進し、また背を丸める……。子猫が夜の闇の中でネズミを狩る練習をするときもこんなふうだろう。非常に興味深い。

 身動きどころか、いきなり目を開くだけでやつは一瞬で逃げうせてしまうかもしれない。僕は身じろぎもせず糸のように細く開けた目の隙間から相手の動きをうかがっていた。

 相手に悪意はないらしい。僕に攻撃されることを恐れているだけだ。丸腰でたった一人でやってきたところを見ると、僕を殺そうという気もないに違いない。どうすれば僕が敵意を持っていないことを分からせることができるだろう。動かないのが一番だ、じっとしていれば、少なくともやつが驚いて逃げることもない。

 やつはとうとう体温を感じられるほど僕に近づいて来て、リレー選手がバトンを待っているときのような姿勢のまま僕の目の前で手を二回振った。僕がわずかに頷くと慌てて手を引っ込め、今にも走り出しそうな様子を見せたが逃げることなく僕をみつめている。僕はまた軽く頷いた。やつはじっとしたままだ。ごくゆっくりと両手を挙げ、手のひらを広げて見せた。どうやらこの「手話」が通じたようで、やつは頷き、駆けだす準備をしていた足を元に戻した。掌を上に向けたままあいさつ代わりに指を曲げてみた。やつはまた頷いた。少し腰を伸ばして相手を見たが逃げ出す様子はない。こんなふうにひどく辛く馬鹿げた時間が少なくとも半時間は続き、僕はやっと立ち上がることができた。

 時間を無駄に費やすこと即ち仕事なら、猫人間ほど仕事ができる者はいない。やつと僕は一体どれほどの時間を費やして手真似をし、頷き、口を曲げ、鼻にしわを寄せ、体の全ての筋肉を総動員して互いに加害する意図がないことを示したことだろう。もちろんさらに一時間かけることも、いや、ひょっとしたら一週間かかったかもしれない。もし遠くにもう一つの黒い影が現れなかったら。その人影に先に気づいたのは猫人間だった。僕が気づいたときには猫人間はすでに四、五歩ほど走り始め、走りながら僕に向かって手招きしていた。僕もやつを追って走った。

 猫人間は物音ひとつ立てず素早く走った。僕は喉の渇きと空腹でいくらも走らないうちに目がチカチカしてきた。だが、僕はほとんど直感的に、追ってくる猫人間に追いつかれたらお互いに良いことは何もないとわかっていた。この新しい友人と最後まで離れないほうがいい。彼は僕の火星探検のいい助手なのだ。追手が背後に迫ってきたに違いない。彼の足にはさらに力が入ってきた。それからしばらくは何とか頑張ったが、最後にはどうにも頑張り切れなくなり、心臓が口から飛び出しそうになった。後ろから声が聞こえる。長く鋭いうなり声だ。猫人間たちも焦っているに違いない。でなければ軽々しくあんな声を上げることはないだろう。もう地面に倒れ込むほかはない。あと一歩でも走れば、僕は口から血を吐いてそのまま死んでしまうに決まっている。最後に残されたわずかな力を振り絞り、拳銃を取り出した。地に倒れ、どこに向かって撃ったかさえわからないまま、僕は銃声も聞かずに気を失った。 

 次に目を開けたときは部屋の中にいた。灰色、赤い光の輪、そして床。ロケット、血の跡、ロープ……。僕はまた目を閉じた。

  何日も経ってからわかったことだが、僕はあの猫人間に死んだ犬のように引きずられて彼の家に運び込まれたらしい。もし彼からそう聞かされなければ、僕はどうしてここに来たのかもわからなかっただろう。火星の土は滑らかで美しく、僕の体には擦り傷ひとつついていない。僕を追ってきた猫人間は銃声に肝をつぶして逃げた。おそらく三日間は足を止めずに走り続けただろう。小型拳銃に充填した十二発の弾丸――、これが僕を火星でその名を知らぬ者のない英雄にした。

 僕はずっと眠り続けた。もしハエに咬まれて目を醒まさなかったら、そのまま永久に眠り続けていたかもしれない。「ハエ」と呼ばせてもらうが、本当の名は知らない。見た目は小さな緑色の蝶によく似ていて美しいが、ハエより何倍も憎らしい悪さをする。そこら中にいて手をちょっと上げるだけで緑の葉の一群が飛びかかってくる。

 体がすっかりこわばっていた。床の上で寝ていたせいだ。猫人間の辞書には「ベッド」という言葉はないのだろう。片手は緑のハエを追い払い、もう一方の手は体をさすり、両目はあたりを見回した。屋内にはこれといった物はない。寝床はむき出しの地面で、寝室で最も大事なものが省略されている。洗面器でもあれば体を拭けるのだが。長いこと寝ていたせいで体中がぐっしょりと汗で濡れている。周りには何もない。欲しい物がない以上、壁や天井を眺めるしかない。全て泥作りで装飾らしきものは何も施されておらず四方の壁からは嫌な臭いがする。それがこの部屋の全てだ。壁には地面から三尺ほどの高さに穴が穿ってあるが、これが入口だろう。窓がどうしても必要なら入口が窓も兼ねることになる。

 僕の拳銃は猫人間に持ち去られもしなかったし、途中で落とすこともなかった。まさに奇跡だ。拳銃を身につけ、僕は小さな穴から外に這い出した。なるほど窓があっても役には立たないはずだ。家は森の中にあった。たぶん昨夜見たあの森だろう。こんもりと茂った木の葉でいくら強い日差しでも届かないし、まして陽光は灰色の空気に遮られている。道理で猫人間は視力がすぐれているわけだ。林の中も涼しさは感じられず、湿って熱気がこもっている。陽の光は見えず、熱気だけが灰色の空気にまとわりついているようだ。風はない。

 僕はあたりを見て歩いた。湧き水か川があれば体を洗いたいのだが見つからなかった。ここにあるのは木の葉と湿気と異臭だけだ。

 猫人間が木の上に座っている。もちろん彼はとっくに僕を見つけていただろう。だが、僕が目を向けると木の葉の中に隠れようとする。僕はいささか腹を立てた。客に対してそのやり方は何だ。飲み食いもさせずただ臭い部屋をあてがうだけとは。僕は自分が彼の客であると考えている。僕は自分の意思でここに来たわけではなく、彼が僕を招いたのだ。何を遠慮することがあるだろう。近寄って行くと彼は木の一番上まで登った。僕はかまわずに木に登り、大きな枝をつかんで力いっぱい揺らした。彼は叫び声を上げた。何を言っているのかわからなかったが、枝を揺らす手を止めて地面に跳び降り、彼が下りてくるのを待った。もはや逃げられないと観念したらしく、耳を伏せ、ケンカに負けた猫のようにゆっくりと下りてきた。僕は口を指さして顎を上げ、口をパクパクさせて食べ物と飲み物を要求した。言いたい事を理解したらしく、木の上を指さしている。果物を食べろということか。ひょっとすると猫人間は穀物を食べないのかもしれないと僕は勝手な推測をした。だが果実は見えない。彼はまた木に登って慎重に数枚の木の葉をちぎって、そのうちの一枚を口の中に放り込み、残りを地面に落としてから、僕と木の葉を順に指さした。 

 まるで羊に餌を与えるようなやり方は我慢できない。僕は木の葉を拾いにいかなかった。猫人間は顔を強くしかめた。怒っているように見える。なぜ怒っているのか僕にはもちろん分からない。僕が怒っている理由も彼には見当がつかないかもしれない。このまま意地を張り続ければきっとよくない結果になる。それでは何の意味もないし、互いに分かり合うことはできない、と僕は思った。

  しかし僕は自分から木の葉を拾って食べるのはごめんだ。彼に僕のところまで持ってくるように手真似で伝えてみたがわからないようだ。先ほどまでの怒りは疑いに変わってきた。まさか火星でも「男女七歳にして席を同じゅうせず」が通用するのか。いや今まで考えたことがなかったが奴は女だったのか。どちらとも判断がつかない。ふむ、男と男の間では物のやり取りをしない決まりなのか。だがそんなことなど誰が知るか(この推測は当たっていた。ここに何日か滞在してこの事実が証明された)。よかろう、互いに理解しあえないからといって意地の張り合いをしていても無意味だ。僕は木の葉を拾い上げて習慣的に手の平でほこりを払った。実のところ手はひどく汚れていて、ロケットの残骸でできた切り傷にはまだ血の跡が残っていたのだが。

 口に一片を入れると、良い香りとたっぷりの水分が広がった。不慣れで食べ方がわからず、口の端から汁が滴り落ちる。すると猫人間の手足が少し動いた。僕がこぼした汁を啜りたそうな様子だ。この葉はきっと貴重なものに違いない。しかしこの広い林で、どうして一枚や二枚の葉っぱがそれほど大切なのだろう。まあいい、気にしないでおこう、ここでは珍しいことばかりなのだ。一気に二枚の葉を食べ終わると、少しめまいがしたが決して悪い気分ではない。甘美な汁が胃の中に送り込まれただけで、ある種の痺れが全身に広がり、自分でも驚くほど体のこわばりがほぐれた。腹は軽い痺れとともに満たされ、夢心地だ。眠りたいが眠れないような、頭がぼうっとしてくすぐったいような、ほろ酔いにも似た刺激を感じた。手の中には木の葉がもう一枚残っている。手も目覚めたばかりのときのように力なく心地よい。腕を挙げる力も入らない。笑いたい気分だが、自分の顔に笑いが浮かんでいるかどうかわからない。僕は一本の太い木の幹にもたれ、しばらく目を閉じた。間もなく、頭を二回ほど振って酔いは醒めた。全身の毛穴まで緊張がほぐれて微笑みそうだ。もし毛穴が笑えるとすればだが。飢えも渇きも全く感じなくなっていた。体を洗う必要もなくなった。泥と汗と血が肉体に実に気持ちよく貼りついて、一生このまま洗わなくても心地よく思えた。

――<次の日>に続く

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