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2017-04-02猫星往還記2 

http://www.kanunu8.com/book3/8026/175696.html

 僕は何度か「早くしてくれ!」と言いかけてはやめた。猫人間の性格や習慣など全く知らなかったが、この数分間で直感的にやつらは宇宙で最も残忍だと確信した。残忍な者は「あっさり」という言葉を知らない。ノコギリをゆっくりと引くことこそが楽しみなのだ。話しかけたところで何の意味があろうか。爪と肉の間に針を刺され、鼻から灯油を流し込まれる覚悟はできていた――火星に針や灯油があればの話だが。

 涙がこぼれてきたのは恐怖からではなく故郷を思い出したからだ。希望に満ちた偉大な国、暴力も酷刑もなく死体を啄ばむ鷹もいない我が祖国。僕はあの希望に満ちた土地を再び見ることも、まともな人生を送ることも永遠に不可能になった。たとえ火星で生き永らえたとしても、僕が享受できるものは苦痛だけなのではなかろうか。

 足にも何本かの手がかかった。やつらは一言も発せず、ただ生暖かい息を僕の背中や腿に吹きかける。僕はまるでヘビにまとわりつかれているような不快さを感じた。

 ガチャっという音がした。何年もの静寂を破ったかのように格別にはっきりと響いた。その音が今でも時おり聞こえる。僕は足首に枷をはめられた。きっとこういう目にあうと予測はしていたが、ひどくきつい足枷のせいで足の感覚が急速に失われていった。僕が何の罪を犯したというのか。やつらは何を考えているのだ。思いつかない。考えなくていい。猫の顔をしたやつらの社会では理性は無用の長物だ。まして感情などあるはずもない。考える必要などないのだ。

 手首も鎖でつながれた。しかしやつらは何故か僕の腕や足から手を離さずに掴んだままでいる。過剰な慎重さは――これが尋常でない残忍さの理由だろう――暗黒の中で生きるためは必要なことだ。僕はやつらが僕を縛りあげたら熱い手を離してくれることを期待したが、それはいささか贅沢な望みであったようだ。

 首にも二本の手が伸びてきた。後ろを見るなということだ。だが僕にはやつらを見る余裕などなかった。人間には――どんなに悪いやつにも――多少の自尊心はある。僕はやつらを見くびりすぎていた。これは過剰な慎重さの表れかもしれないし、最悪の場合には首の後ろには何本ものナイフがギラギラを光っているかもしれないのだ。

 まだ歩き出さないのか、と僕は思った。そう思ったとたん、やつらは自分たちも時には素早く動けることを故意に示すかのように、僕の足にひと蹴り喰らわせて歩けと命じた。枷をきつくはめられて足が痺れていたせいで僕は思わず転びそうになったが、柔らかい鈎のような手が僕の肋骨に食い込んで支えた。背後からは猫が相手を威嚇するときに発するような「フーッ」という声が何度も上がった。これはおそらく猫人間の笑い声だろう。獲物をいたぶって喜んでいるに違いない。僕は全身汗だくになった。急ぐ必要があるなら、やつらは僕を担いでいくことも十分に可能だし、是非そうして欲しかった。僕はもはや一歩も前に進めなくなっていたのだ。しかしそれこそ僕をどうしても歩枷なければならない理由だった――「理由」の二文字をこんなふうに用いても無礼でなければだが。

 汗で目を開けることもできず、手は後ろで縛られている。首を振って汗のしずくを振り払うこともできない。やつらの手が首にも食い込んでいるのだ。僕は硬直したまま歩いた。いや、歩くとはいえないが、跳ねる、足を引きずる、つまずく、身をよじる、等々の動作を一語で表現できる言葉が見つからない。

 数歩も行かないうちに奇声が聞こえてきた――幸い、耳までは塞がれてはいなかったのだ。鷹の群れが一斉に「ギャーッ」っと鳴いた。その声は戦場で一斉攻撃を開始するときの「突っ込めー!」という叫びに酷似している。もちろん標的は友人の……。僕は自分を恨んだ。もう少し早く取りかかっていれば友人を埋葬できたかもしれない。僕は自分を責めた。お前は何故ただぼんやりと眺めていたんだ! 友よ、たとえ僕が生き永らえて再びここを訪れることがあっても、きっと君の骨のかけらさえ拾ってやれない! 僕の人生の甘美な記憶の全てをもってしても、この悲痛と後悔の念を消し去ることはできない。この出来事を思い出すたびに僕は自分を人類で最も価値のない人間だと思うことになるだろう。

 悪夢の中にいるようだった。体は苦痛にあえいでいたが、頭はまだ他のことを考えることができた。僕は亡き友のことだけを考え、目を閉じて、あの鷹どもが彼の肉と僕の心を啄ばむ様子を想像した。どこまで来たのだろう。目を開けたとしても、何も見る気になれなかった。来た道を憶えておいてやつらから逃げようとまだ考えているのか。歩いているのか、飛び跳ねているのか、それとも転がっているのか、猫人間だけが知っている。僕はそんなことはどうでもよくなっていた。肉体はすでに自分のものではなく、ただひたすら顔中に汗を流し、重傷を負ってなお知覚を完全には失なっていないかのように自らの肉体がどこにあるかもわからず、ただ体のどこかで汗が噴き出ていることだけがわかった。命はすでに自分の手中にはないにもかかわらず、痛みや苦しみは感じない。

目の前が真っ暗になった。しばらくして僕は目を開けた。酒に酔ってようやく酔いが醒めたような心地だ。足枷をはめられたところがズキズキと痛む。無意識に手でさわろうとしたが、手首はまだ鎖でつながれたままだ。目を開けてからかなり経っていたはずだが、このときになってようやく何かが見えた。僕は小舟の上にいた。いつ乗ったのか、どうやって乗ったのかは全く記憶になかったが、もうかなり前から乗っていたようだ。というのは、足首の感覚が徐々に戻って痛みを感じるようになっていたからだ。ためしに後ろを振り返ろうとすると首をつかんでいた二本の熱い手はすでになかった。振り返って見たが何もない。頭上には灰色の空が広がり、足元にはドロリとした濃い灰色の川があった。物音ひとつしない。しかし川の流れは速く、僕と一艘の小舟だけが川下に向かって流されていく。

  僕は一切の危険にかまうことなく、いや、このときは危険の二文字が脳裏に浮かぶこともなく、暑さや飢えや痛みよりも極度の疲労に抗えず――半月以上もロケットに乗っていたのだ――、何とか体を斜めにして横たわり眠りについた。手につながれた鎖が邪魔をして背を下にして仰向けに寝ることはできない。自分の運命を濁って熱気をおびた川に預け、僕はひたすら眠った。こんな状態でいい夢を見ようなどと考えられるだろうか。

  再び目を開けると小さな部屋の片隅にもたれて座っていた。部屋というより洞窟と呼んだ方がふさわしい。窓もドアもなく、四方を壁のようなものに囲まれ、床は雑草が生えたままのむき出しの地面、天井は小さく切り取られた銀灰色の空だった。両手は自由になっていたが、腰には太い縄が結ばれている。僕はこんなベルトを必要としていなかったが、片方の端は僕の腰に巻き付き、もう一方の端は見えなかった。あるいは壁の外側に結んであるのかもしれない。きっと上から吊るされてここまで降ろされたのだろう。意外なことに懐の拳銃はそのまま残されていた。

 どういうつもりなのだろう。誘拐か? 地球に身代金を要求するのか? まさかそんな面倒なこと! 怪獣を捕まえて馴らしてから動物園で見世物にするのだろうか、それとも生物研究所に送って解剖するのか。むしろそのほうが有り得る話だ。僕は笑った。どうやら精神にやや異常をきたしているようだ。ひどく喉が渇いた。なぜ拳銃が奪われなかったかという疑念と安堵も僕の唾液を分泌する役には立たない。何か救いはないかとあたりを見回すと、ちょうど反対側の壁の隅に石の缶があった。中に何が入っているのだろう。何でもいい、とにかく中を確かめなければ。本能は知性より聡明だ。足はまだつながれているから跳ぶしかない。痛みをこらえて立ち上がろうと何度も試したが、足が思うままにならず立てなかった。このまま座っていれば喉の渇きで胸が張り裂けそうだ。肉体の苦しみは精神の尊厳を奪い去る。這って行こう。洞窟はさほど広くない。地面を這って近くまで行けば、僕の運命を握る希望、あの宝の石缶に手が届く。しかし地に伏そうとしたとき、腰に巻かれた縄が僕に警報を発した。縄の長さが足りず寝そべることができないのだ。前に進もうとすれば宙づりになってしまう。絶望的だ。

 口の中の焼けつくような渇きが僕にひらめきを与えた。足を前にして仰向けに進もう。ひっくり返ったら起き上がれない甲虫の真似をするのだ。縄はきつく縛ってあるが、懸命にもがくとみぞおちのあたりにずり上がってくる。みぞおちは腰回りよりも細いから、胸のところまで縄が上がれば足があの缶に届くだろう。腹や胸に擦り傷ができても、この喉の渇きには代えられない。肋骨のあたりの皮膚が擦れて痛いが関係なく前進する。痛みなどに構っていられない。あ!、足先が宝の缶に触れた!

  足首にきつく枷をはめられているため、伸ばしたつま先は缶に触れるのに、足先を左右に広げられず缶を挟むことができない。少し足を上げるとつま先を少し開くことはできるのだが、それでは缶に届かなくなってしまう。絶望的だ。

 仰向けに寝て空を眺めるしかなかった。無意識に拳銃を手にした。喉がひどく渇いている。精巧な小型拳銃を見やり、目を閉じて滑らかな銃口をこめかみに当てた。指を引けばこの渇きから永遠に解放される。と考えたとき、いきなり脳内がパッと明るく閃いた。僕はすばやく座り直して壁の隅に向かい目の前にある太い縄に照準を合わせた。パン!、パン!という二発で縄には焼け焦げた塊ができた。狂ったように引き裂き食いちぎって、とうとう縄を切ることができた。喜びのあまり足枷をはめられていることも忘れて急に立ち上がったせいで転倒してしまったが、ついでにそのままの姿勢で石缶のところまで這って行った。缶を手に取ると内側がキラリと光った。水だ! 水だと思うが、もしかしたら……、いや、もうそんなことに構っていられない。缶は分厚く飲みにくかった。だが口にするとひんやりと冷たい甘露であった。努力は必ず報われる。僕は人生の真理をひとつ悟ったような気がした。


―――<次の日>に続く

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