你好,Pon-Chan!

2006-10-24雑文(1)

 とにかく中国人はおしゃべりで交流好きだ。こう考えている日本人は非常に多いのではないかと思う。大体、自己紹介からしてやり方が違う。日本人自己紹介は(相手から求められない限り)自分の名前を言うだけで終ってしまう人が多い。それ以上の個人的な情報については、付き合いが深まる中で相手に明かしていくのが一般的である。過度の自己紹介は(話し方や内容によっては)単なる目立ちたがり=和を乱す者、と誤解されかねない。日本では自分のことを積極的に話さないほうが「奥ゆかしい」と見なされ、肯定的な評価を受けるケースが多いことも影響しているのだろう。

 対して中国人は、とにかく自分を理解してもらうべく、最初から相手に色々な情報を提示する。あいさつや自己紹介が一言・二言で終わるケースは非常に少ない。私も中国人と付き合い始めた当初は、「初対面の相手に何をこんなに話すことがあるのか」と面食らったものである。こうした「自己アピール」へのこだわり(⇒後で述べるが、それを「こだわり」と評価するのも非常に日本人的な考え方)は、就職戦線においても「然り」。中国人向けの日本語求人サイトを見てみると良いが、とにかく中国人求職者は一様に「私はあれができます、これもできます」のオンパレード日本人は、まずそういう言い方・書き方をしない(そういう言い方・書き方を好まない)ので、非常に違和感を感じる。おそらく中国では「できる」ことと「自己アピールする」ことが同義なのだろう。「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」という言葉に見られるように、「できる」人にこそ過度の謙虚さを求める日本人とは、その思考根本からして異なるのだ。

 自己の経験に依拠した話を一般化することの危険性は百も承知だが、諸外国における自己紹介と言えば、やはり洋の東西を問わず「自身について積極的に語る(日本人的に言えば「聞かれてもいないことまで話す」)」のが当然のことであるようだ。その意味では、中国人は語る内容・行動ともに「国際基準」を満たしていると言える。考えてみれば、日本と諸外国ではそもそも最初の挨拶からして違う。達者な英語中国語で「hello!」「你好!」と言いながらお辞儀までしてしまう日本人…。諸外国では、目をしっかりと合わせて親しみの情を浮かべるか、力強く握手をするのが通例なのに…である(もちろん中国後者の部類に入る)。文化が相対的なものである以上、その是非や価値を断定的に述べることはできないが、外国人の目から見たときの日本人の第一印象は、さぞ奇妙奇天烈であること極まりないだろう…。

 もちろんこうした思考・行動様式における相違を「そんな小さなこと…」と捉える向きもあろう。しかし、中国を始めとする諸外国自然にできることすら自然にできない…という事実こそ、日本人が異文化を理解する上で究極の障害となり得る要素なのだ。例えば、先に挙げた自己紹介一つをとってみてもそうである。中国人思考や行動パターンを解さない日本人がそれを聞けば、極端な話「何を偉そうに」「このでしゃばりが…」というマイナス価値判断を下す可能性もある。日本人としての「文化フィルター」が無意識のうちに作動してしまうからだ。しかも、このフィルター存在というのが非常にやっかいである。意識したからといって-知識として知っているからといって-そう簡単に外せない代物であるからだ。先の「お辞儀」が格好の例であろう。日本人にとって、日本にない道徳観や行動様式・ルールに自分を合わせていくことは-その意識・無意識を問わず-、一定の心理的抵抗を伴う大変難しい作業である。無論それは諸外国側にとっても同じことなのだが、日本人の私からすれば、彼ら外国人同士の付き合いは「それはそれなりに」という程度には上手くやっているように見える。日本人でさえなければ、何らか共通の「文化フィルター」の元に会話が成立するかのような-、そんな孤立感さえ感じることがある。

 ちなみにこの「文化フィルター」の存在だが、自分の本業?である「語学」と結びつけて考えても非常に面白い。そもそも日本人外国語が下手なのは、日本語の発音・文法の特殊性にその解答があるわけではなく、寧ろ日本特有の「文化フィルター」によりろ過された結果生じる「負の産物」とでも言うべきものなのではないだろうか。誤解を恐れず言えば、多くの日本人は「外国人と何を話したいのか」「何を話したら良いのか」さえも分からず悩んでいるのである。これは単純に語学力不足だけが原因ではない。実際、日本人同士の会話では饒舌であっても、こと外国人との会話となると-例え母語日本語で話していても-、無口になってしまう人は少なくない。かく言う私もその一人である。大変失礼な物言いであることを承知の上で言うが、そもそも異なる「文化フィルター」、つまり一つの事象に対して自分たちとは異なる理解をする(あるいは異なる理解をする可能性のある)相手と共通の話題で楽しく盛り上がれる…などと、安易に考えないほうが良いのではないだろうか。経験者ならば理解できると思うが、会話の内容や相手の反応が逐一日本人のそれとは異なる、というのは想像以上の労力を使う。おそらく会話相手の外国人にしてみても、似たような感情を日本人側に抱いているに違いない。私自身、中国語を学び始めた当初は「ネイティブ中国人と話が弾まないのは、自分の中国語力に問題があるからだ」「ペラペラ話せるようになれば、この違和感もきっと解消できるに違いない」という淡い希望?にも近い感情を抱いていた。しかし、何とか簡単な会話をこなせるようになった現在でさえ、そもそも相手と「何を話せばいいか」で頭を悩ませ、途方にくれることも少なくない。余談ではあるが、「中国人英語が上手い」と言われる真の要因は、何も文法や発音における類似点に限ったことではないように感じている。おそらく、中国の「文化フィルター」そのものに西洋のそれと共用できる部分が多く、中国人自身が英語で自分を語ることにストレス違和感を感じにくいためであろう。

 こうしたことを考えるにつけても、日本語学教育欠点がまざまざと見えてくる。そもそも外国人と「話すことがない」「共通の話題がない」日本人外国語を学んで、一体何になるというのだろう。語学を習得するに当たって本来最も重要視されるべきは、日本と諸外国がそれぞれ異なる「文化フィルター」を持つ事実を理解することである。もっと言えば、異なるフィルターを持つ諸外国に対し、どのような言葉や行動を示すことが互いの理解を促進する要素となり得るのか…を考える作業でもある。「異文化との接触・理解」に関する教育は、英語を始めとする語学教育そのものの注目度と比べれば、全くといっていいほど認知されていないのが現状である。最近外国語(特に英語)が話せるようになれば国際理解も進む-とでも言いたげな論説が流行っているが、果たして外国語英語)が話せれば外国人と上手く付き合う技術も同時に獲得できるものなのだろうか。残念ながら答えは「NO」である。表面的に外国語を話すことができても、内在する「文化フィルター」が日本のものであり続ける限り、外国人と同じ俎上で語り合うにはどうしても無理が生じる。英語ディベートの権威たる某先生言葉を借りれば、「バイリンガルになるのは比較的簡単でも、バイカルチャーであることは相当難しい」といったところであろうか。

 日本語で全てが事足りる日本人には、本当は単なる「バイリンガル」であることさえ難しいことだが、通常はさらにその上に「バイカルチャー」の壁が付き纏う。私自身、中国語という語学に携わる者であるが、異なる「文化フィルター」から生じる日本中国との位相差は、今後も常に大きな課題であり続けることだろう。自分の一生をかけるつもりで、気長に取り組んでいきたいと思っている。

lavender_toooolavender_toooo 2007/08/02 23:46 文章を拝読いたしまして、とても勉強になりました。日本で留学中の中国人学生です。 ちょうどこの前ゼミのレジュメですごい詳しい「自己紹介」を書きました。いまものすごく不安です。

cqbzwdayecqbzwdaye 2011/03/08 11:43 cSth1O <a href="http://dfkqlsmxzjjs.com/">dfkqlsmxzjjs</a>, [url=http://bmzknduelqsm.com/]bmzknduelqsm[/url], [link=http://dghpxzqpeuqd.com/]dghpxzqpeuqd[/link], http://ibgvayiwkhhi.com/

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